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戦記 ~サイパンの戦い~

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戦記 ~サイパンの戦い~

2月にサイパン戦を描いたドキュメンタリーの太平洋の奇跡を見まして、同じ頃に発刊された「サイパンの戦い 「大場栄大尉」を読み解く」を図書館で予約していまして、3月上旬に入手し読んでみました。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_0?1303363784
1.太平洋の奇跡を裏付けるかのような多彩な資料が盛られています。なかなかおもしろい本でお勧めです。マニアの方にも!
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_1?1303363784
2.太平洋の奇跡からのカットです。もちろん現代で再現されたものですがリアルです。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_2?1303363784
3.この本は写真の多い本です。終戦間際の投降兵の写真。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_3?1303363784
4.こっちは34名の投降兵だそうです。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_4?1303363784
5.米軍が上陸する海岸で塹壕で倒れた日本軍兵士です。重機関銃が2丁見えます。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_64358896_5?1303363784
6.上陸したM4シャーマンに手榴弾攻撃をしかけたのでしょうね。多くの日本兵が倒れています。擲弾筒などもなく、手榴弾などしかない場合は、敵戦車に近寄り、無限軌道(キャタピラ)を爆破し戦車を動けなくします。多数の人がなくなっているので、頓挫させたあとも戦車を破壊しようと攻撃を仕掛けたのだろうと思います。

サイパンではもとの守備隊は確か数千名程度で少なかったので、昭和18~19年ころから中国大陸にいる陸軍部隊が急遽輸送船でマリアナ諸島に送り込まれました。
戦争後半はシーレーンを守る艦船も不足し、輸送船はほぼ丸腰のまま中国からマリアナに向かいましたので、米軍潜水艦に沈められた輸送船も多くあります。
太平洋戦争での戦死者は兵士300万人ですが、沖縄を除きまともに戦闘のない国内で10万人の戦死者が出ていますが、これは南方への輸送の途中で潜水艦に沈められ亡くなった兵士が多いためだそうです。

横井さんも中国戦線からグアムへ送られた一人で、東京で現地も知らずに精神論で戦えと指示する無鉄砲、無策の大本営のやり方に強い憤りを著書で表しています。

途中撃沈された輸送船は、仲間の船も撃沈されては困りますので、沈むまま助けずに先へ急いだそうです。また運良く助けられたものは重油で真っ黒になりグアム、サイパンに上陸し、十分な武器、弾薬もないまま昭和19年6月のサイパン戦に突入し、最後はほとんどが玉砕を遂げました。


現在、3月の大震災で被災地は正に戦場さながらの大変な事態になっています。
明治、昭和と大津波に襲われながら、話に聞いてはいたでしょうが、まさか自分が生きている間にこんな大きな津波がくるとは思わなかった方が多かっただろうと思います。

戦後、昭和平成と戦争も無く平和な時代を謳歌した日本ですが、平和をただの様に思い、安閑としてきた日本に大きな警鐘を鳴らした事と思います。

現在、領土問題で周辺諸国といくつかの問題を抱えている日本ですが、恐らく先の大戦のような大きな戦争はもう起きないだろうとは思いますが、小さな地域紛争や戦争は世界各地で起きていますし、現在東アジアが世界の火薬庫となりつつある状況で、今後日本が再び悲惨な戦争に巻き込まれないとも限りません。
交通事故、震災と同じで、何もせずそこにいるだけでも被害を蒙るように、戦争も相手がいて、戦争を仕掛けられればいとも簡単に戦争に巻き込まれてしまいます。
正に先の韓国でのヨンピョンドへの砲撃がそうでした。

今回の大震災を教訓にし、先の戦争も決して忘れ去る事無く、未来へ語り繋いでいかねばならなず、また平和は決してただではないという事を今一度日本人は噛み締めねばならぬと思います。

日本人はとかく忘れやすいと評される事があります。
明治、昭和の三陸津波で2万余人、そして今度の津波で見たたび3万人弱の犠牲を出してしましました。
先の戦争でも300万人と言う尊い犠牲をだしたという事実を日本人は決して忘れてはいけないと思います。


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戦記 ~海兵隊 撃墜王空戦記/グレゴリーボイントン~-2

戦記 ~海兵隊 撃墜王空戦記/グレゴリーボイントン~-2

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このグレゴリーボイントン著の「海兵隊 撃墜王空戦記」はビルマでのフライングタイガースと激戦のガダルカナル、ブーゲンビル、ラバウルのソロモンでの航空戦の実体験を綴った戦記です。
先に紹介した「私は零戦と戦った」を著したジョン・M・フォスターとは、現地で共に戦っており、フォスターの著書にボーイントンが出てきます。

両書とも時期はガダルカナルが落ち、日本軍が劣勢になりはじめた1943年から、ブーゲンビル、ラバウルと撤退し、ついには航空隊もトラック島へと撤退する1944年初頭ころまでの戦記です。
当初、ガダル~ブーゲンビルでの航空戦が多いものの、1944年前後で航空戦の舞台はラバウルへと移り、多くの攻撃機や零戦が撃墜される様が描かれています。
非常に多くの日本軍機や零戦が撃墜されるのですが、日本側の戦記物を見ますと、一式陸攻などは壊滅状態になったり非常に多く撃墜された様ですが、零戦はそうでもないだろうと思われ、日米とも戦闘機の撃墜は不確実な事が多く、記載されているうちの半数程度だろうと思われます。

ボーイントンはビルマ中国戦線を劣勢のP40で戦い、ソロモン戦線では当時30歳とベテランパイロットの域で、他のパイロットが20歳前後と若いのに対して対照的で、戦闘の記述を見ても、日本のベテランに有るように、高空と優位な位置に立ち、抜け目無く監視を行い、隙のある敵機を撃墜している様が本書によく描かれています。
撃墜数が多く、なかなか撃墜されないパイロットに共通する戦闘の仕方があり、岩本徹三などと似た部分があるかと思います。

米軍は6週間の前線勤務と1週間のシドニーでの休暇、そして2週間の訓練のサイクルを3回繰り返すと本国に戻れるのですが、ボーイントンはその最後の3回目の最後の前線勤務の終了間際、あと一機で米軍の撃墜記録を塗り替えるというところで、1944年1月3日に撃墜され、終戦まで日本の捕虜となるという数奇な運命を辿りました。

生涯撃墜数は24とも28機ともあり、戦争期間中フルタイムで戦う日本軍エースに比べ撃墜数は少ないですが、これは前線勤務の期間が6ヶ月×3回と1年半と短いせいがあります。
戦闘期間が短く、撃墜数も少ないので、坂井や岩本などに比べると空戦場面は少なく、乗機がF4Uと大型機であり、軽量な日本機の激しい機体挙動で手に汗握るような描写とは一味違い、大型重量機の一撃離脱に徹した空戦模様が伝わります。

日本機は3機で1編隊でしたが、米軍は2機×2ペアの4機で1編隊で、2機のペアでウィービング(交互に左右に入れ替わる)を繰返し、敵機を攻めたり、攻撃をかわしたりする様が良く分かります。

ボーイントンの僚機も被弾撃墜されるものがいるのですが、ベテランらしく、常に僚機など味方機の配置や状態に気を使い、援護などに回る所は日米共通でベテランの雰囲気を感じます。

日本軍にもあったかもしれませんが、密かに戦闘をさけ、安全な場所に逃げ時間を潰して帰投するものも米軍には結構居たようで、戦闘機隊を外されるなどの記載があります。
米軍は零戦など相当恐怖を感じていた様ですが、士気は比較的高く、闘志が漲り、進んで戦闘に行く事が多かった様です。

本書は、撃墜され捕虜になり終戦の後帰国するという珍しい経験が記載され、非常に興味が惹かれます。
撃墜後、日本潜水艦での手厚い対応や、サイパンで日本准士官に「戦争が終ったら、アメリカともよき友達でありたい」という下りなど、前線の日本軍の中にもそういう先見性あり、しっかりした意見を持つ人が居たかと思うと、嬉しくも思い大変興味深いです。

ボーイントンは’44年1月に撃墜され、2月半ばにラバウルからトラックに移送され空襲を受け、そしてサイパン、日本へと移送され、ちょうど岩本が新規機体受領のため、ラバウル~トラック~サイパンと本土へ移動した時期と似た時期に護送されています。
トラックにつくやいなや米軍の空襲をうけるが命拾いし、玉砕の島サイパンではまだ6月の戦闘前でアスリートだと思われる飛行場に付き、その後戦死されたかと思われる良識ある准士官のもてなしなど平和な場面に感慨深いものを感じます。

戦後、ボーイントンはアメリカ各地で公演していますが、書中次のような記述があります。
「あなたがたを惨めに合わせた人間があやまちに気が付き、それなりの償いをしたら、あなた方は許すでしょう・・・私は日本人全体を憎む事はできなかった。敗戦が色濃くなってからでも、われわれアメリカ兵には、それとなく良くしてくれた。戦争犯罪人も日本人の手で裁いたらいい。それが出来る人たちだと信じる。日本にいる占領軍たちの規模は誠に小さい。にもかかわらず、何一つの問題も起きていない。むしろ一心に協力してくれる。あと20年もたてば、ロシアの沿岸からさほど遠くない所に、アメリカにとってかけがえのない友人が育つだろう・・・」

この本を読み終わり、勝者側のただの戦記に終らず、著者の捕虜という体験を通して当時の日本人についても知ることも出来きました。また最後のボーイントンの言葉は戦記物にありがちな、勝ってハッピーエンドだけでなく、現在大震災で被害を被った日本を救う米軍の「トモダチ作戦」を予想させるもので、感慨深く、意味のある言葉だと感じました。

戦争の航空戦と捕虜という体験を通して、日米の枠だけでなく、戦争自体や、人間について考えさせてくれる良い著書だと思います。
ご一読を是非ともお勧め致します。

ちなみに本書は、原著を短くしたものですので、是非原著を読んで見たいところです。

▼抜粋だが、結構詳しい記載があるぞと。一見の価値あり。
Major Gregory "Pappy" Boyington C.O. VMF-214, Black Sheep Squadron

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戦記 ~海兵隊 撃墜王空戦記/グレゴリーボイントン-1~

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戦記 ~海兵隊 撃墜王空戦記/グレゴリーボイントン~-1

日本の岩本徹三などや、サイパンなどの日本側戦記に引き続き、米側の戦記も読んでみました。
 戦記 ~私は零戦と戦った/ジョン・M・フォスター~
そしてもう一冊、「海兵隊 撃墜王空戦記/グレゴリーボイントン」も読んでみました。
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これは、日中戦争当時フライングタイガースでP40に乗り、そしてマリアナ航空戦でF4Uを駆りラバウルなどの零戦などと戦った海兵隊VMF-214のエースパイロット、グレゴリーボイントンの著書で、P40時代からF4U、そして撃墜され日本で捕虜を凄し、戦後アメリカでの生活を描いた本です。

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Gregory "Pappy" Boyington (December 4, 1912 - January 11, 1988) was a United States Marine Corps officer who was an American fighter ace during World War II. For his heroic actions, he was awarded both the Medal of Honor and the Navy Cross. Boyington flew initially with the American Volunteer Group in the Republic of China Air Force during the Second Sino-Japanese War. He later commanded the famous U.S. Marine Corps squadron, VMF-214 ("The Black Sheep Squadron") during World War II. Boyington became a prisoner of war later in the war.

著者略歴
1913年、アメリカ、アイダホ生まれ、ワシントン大学卒業後1935年海兵隊入隊。1941年9月フライングタイガース(AVG)に参加、中国、ビルマ戦線で戦う。1942年11月海兵隊に復帰、1943年1月ソロモン戦線参戦、VMF-222戦闘機中隊長。VMF-214戦闘機中隊長。1944年1月、28機の撃墜を記録し、撃墜され、終戦まで日本で捕虜となる。1989年ガンで死去。

海兵隊は、最前線のソロモン諸島のガダルカナルなど敵前上陸し、航空基地を設営、航空機で攻撃も行う米軍でももっとも厳しい任務と使命と帯びた軍隊です。
海兵隊は、「Marine Corps」で、マリン・コー、またはマリンコと呼ばれ、海軍省に属し、海軍と行動をともにしますが、海軍とは独立平行した組織です。
日本では陸軍の上陸する部隊や海軍陸戦隊と海軍基地航空隊を合わせたような柔軟性のある組織です。

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さて、ボーイントンですが、1930年ワシントン大学入学、卒業後直ぐに結婚し、ボーイングでエンジニアなどとして働いた。ボーイントンは大学時代に予備仕官学校のメンバーとなるなどし、1937年海兵隊に正式に入隊した。その後1941年9月AVG(アメリカン・ボランティア・グループ、蒋介石を支援するための義勇軍で米軍ではない。)に参加し、サンフランシスコから船でビルマ(現ミヤンマー)のラングーンに到着、ビルマ中部のトングーでP40による訓練が始まる。開戦後中国の昆明に移動。
マレー、シンガポールに居たイギリス軍のF2Aブリュスターバッファローが全滅し、1942年2月ビルマのラングーンい行き応援。英軍F2Aと共に、日本陸軍九七式戦と戦う。九七式戦の方が運動性が良く軽快で巴戦を避ける。2月半ばにハリケーン到着。
’42年3月日本軍がラングーンに迫り、ラングーンから昆明に脱出。その後タイのチェンマイの日本軍飛行場など攻撃。

7月にAVGが陸軍航空隊に編入される事になり、AVGを辞め昆明からインドのカルカッタへ行き、ボンベイから船でニューヨークに戻る。サンディエゴの海兵隊に復帰、船でニューカレドニアのヌメア、そしてニューヘビリジス諸島のエスピリッツサントに行き、後方基地に入る。

’43年4月ガダルカナルに赴任VMF-222中隊長となりF4Fでガダルからブーゲンビルに至る島々を攻撃する急降下爆撃機の援護と周辺警戒。
当時はF4F、P38、P39、P40、TBFアベンジャー、SBDドーントレス等を使用。
5月半ばにエスピリッツサントに戻りF4Uに機種改変。1週間シドニーで休養、再びエスピリッツサントに戻り慣熟訓練。ここで6月足を骨折、オークランドの病院に入院。エスピリッツサントのファイターストリップ後方基地に戻り、中隊の残務整理。その後寄せ集めパイロットでVMF-214中隊を編成、
3週間訓練。ボーイントンの厄介者集団(ボーイントンバスターズ)と愛称をつける。
’43年9月16日、ラッセル島着、バラレ攻撃に参加、初陣。愛称を「ブラックシープ」(持て余し者)に変更。
10月ムンダ飛行場に移動、11月のブーゲンビル上陸作戦に合わせ攻撃が多くなる。
ブイン(カヒリ)攻撃など。
12月、ベララベラ島に移動。陸軍航空隊がガダルカナル基地を引き継ぎ、B24、B25で攻撃参加、この護衛任務が増える。2度目のシドニー休養。
12月、ベララベラに戻りクリスマスから’44年1月3日まで連日夜明け前に離陸、ブーゲンビルで給油しラバウルを攻撃。
12月27日25機目を撃墜。第一次大戦のリッケンバッカーと今大戦のジョー・フォスの26機に迫る。
’44年1月3日ラバウル攻撃で2機撃墜するが、メインタンクに被弾し撃墜されこの時銃創を負うが、日本の潜水艦に助けられ捕虜となる。潜水艦はクッキー、タバコなどで手厚くもてなした。ラバウルで特別捕虜となり、尋問を受けた後、2月に一式陸攻でトラック、サイパン経由で日本へ護送される。
トラック島では、初のトラック空襲に遭う。サイパンへは零式輸送機で移動。サイパンで准士官に食事をご馳走になり、士官から下記の様に言われる。
「あなた方の取り扱いについて、わたしたち日本人の大部分は恥ずかしく思っている。この戦いは長くは続かない。戦争が終わったら再び友人でありたい。」
サイパンを出て午後には横浜に近い飛行場に着き大船の海軍捕虜収容所に収監される。
ここで隠してきたエース戦闘機パイロットだと言うことが正体がばれる。
2月半ば横須賀に米軍の空襲。
’45年4月大森捕虜収容所に移される。
我々を酷い目にあわせた兵隊は日本から一歩も出た事がない若者がほとんどだった。戦場帰りは負傷したものでもそのような振る舞いはしなかった。はじめて軍服を着ると人が変る。
8月15日終戦で開放。
数日後、飛行機で横浜~グアム~カゼリン環礁~ホノルル~サンフランシスコと戻り、各地を回り、勲章を授与される。
その後再婚するが、職に困り転々と職を変る。1989年ガンで死去。


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戦記「私は零戦と戦った」のネンジーさんのコメント

さて昨日の記事、戦記 ~私は零戦と戦った/ジョン・M・フォスター~にネンジーさんからコメントを頂きまして、返事を書きましたら長くなりましたので記事にしました。
ネンジーさん、まいどいいコメントですね~ いや~素敵だ!
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ちなみにブログ友で関東在住のカッシーさんが昨日富山に来襲し、早速昨夜夜襲を受けまして、ネンジーさんをダシに盛り上がっておりましたよ~ カッシーさんきちんとされた素敵な方でした。
 カッシーと旅と音楽の日々
昨夜の夜襲の状況はまた別途戦闘報告で~


ネンジーさん、今回米軍にこれだけ大規模に支援をしてもらうと、先の大戦での恨みつらみの話もできなくなっちゃいますし、70年前なんとかして戦争回避出来なかったものかとつくづく考えさせられますね。まぁ、これが歴史の流れなんですがね。

実はこの後海兵隊のトップエース、F4U乗りのボーイントンの「海兵隊撃墜王空戦記」も読んだのですが、海兵隊で多数の出撃回数、撃墜数を上げたにも関わらず陸海軍と違って表彰されなかったり海兵隊そのものの扱いが低かった様ですね。
一方で海兵隊はソロモンでのガダルやマリアナのサイパン、グアム、硫黄島などで敵前上陸し、航空基地を設営、地域制圧する過酷な任務で、殴りこみ部隊と言われていて、この歴史が現在も海兵隊での誇りになっていますね。
硫黄島で星条旗を立てる銅像はあれは海兵隊ですね。

WWⅡ開戦当時はアジアは明らかに人種差別と植民地の時代で、Bf109に歯が立たず役立たずのF2Aなど、どうせ日本の飛行機などと見くびって東南アジアに配備して壊滅的被害を受け、慌てふためきました。
ちょうどこのあたりは加藤隼戦闘機隊や、P40で戦うボーイントンのフライングタイガースの辺りに詳しいですが、マレーで苦戦するイギリス軍支援のためP40も本来任務の中国でなくやむなくマレーへ進出せざる得なかったですね。
開戦当初のマレーでの電撃的な破竹の進撃で、イギリス軍もあっさり降伏しシンガポールを開け渡しました・・・ なんちゅう事もありましたがもう過去の歴史ですね。

WWⅡに関して、アメリカのルーズベルトは日本を叩くため戦争をしたかったようで、米国内の反戦的ムードを翻すため真珠湾直前の事実上の最後通牒であるハルノートなど意図的に日本を開戦に導き、ルーズベルトも真珠湾攻撃も知っていて待っていたという話もあります。
しかし、開戦当初の日本の実力を見くびりすぎ大きな危機に直面し、戦時中、アメリカは大きな犠牲と損害をだし、大きな予算を使い、戦後アメリカは、二度とアメリカと戦わないように、武力、政治組織についても徹底的に非武装化を進めました。

ネンジーさんが言う様に、日本とアメリカが同盟関係でいられるのも、日本がアメリカの実力を良く知り、アメリカも本気で日本と戦った事、そして戦後の同盟の深化、強化などそいう歴史があるからこそでしょうね。
ガチンコでぶつかって相手の力を知り、相手を理解しないと相手の事が分からないと言うことでしょうか。
下世話な言い方ですが、雨降って地固まる、でしょうか。

リップサービスと実行動の乖離などダブルスタンダードは、近隣諸国にも見られますし、まぁ多かれ少なかれどこの国にでもあることです。
でも、先の大戦の開戦に至る歴史の事実は、世界的、歴史的大局的見地に立ち、世界のみならず日本自体が自虐史観を捨て客観的に判断し、汚名を挽回していく必要があってしかるべきだろうと思います。
今となってはもう当時の存命者も少なくなりました。
過去の歴史年表上の一つの出来事に過ぎなくなりつつあります。

1941年の日米に、2011年にトモダチ作戦があることを知らせる事が出来るならばなんとしても知らせてやりたいですね。
きっと戦争が回避でき、300万人の人命と国土が壊滅的被害を蒙るなど無駄な事をせずに済んだかと思うと残念に思ったり、悔しく思ったり。
まぁ、当時の日米にとても信用して貰えそうないもないかもしれませんがね。

2011年のトモダチ作戦など知る由もないソロモンでの日米(+オーストラリア、ニュージランド)の激戦の戦記を読み、悠久の時の流れを感じました。


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戦記 ~私は零戦と戦った/ジョン・M・フォスター~

戦記 ~私は零戦と戦った/ジョン・M・フォスター~

大震災で米軍が大活躍しているのに70年前の先の大戦の戦記を記事にするのもタイミング的にどうかと。
以前アメリカで買ったWWⅡのエースパイロットにインタビューした列伝を紹介し、ソロモン戦線でF4Uコルセアを駆ってラバウルの零と戦ったエース、ボーイントンの記事を書きましたところ、ネンジーさんはご存知で、同じく海兵隊でF4Uを駆って零と戦ったフォスター大尉の著書「私は零戦(ゼロ)と戦った」を紹介され、早速借りて読んでみました。

▼私は零戦と戦った/ジョン・M・フォスター 英名 Hell in the heavens
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この本の著者JMフォスター大尉は1943年9月第222海兵隊戦闘飛行隊(VMF-222)の隊員としてジョージア島のムンダ飛行場に着任、ベラ・ラベラ島、ブーゲンビル島、ラバウル島での航空戦を戦い、1944年3月、ラバウル航空隊のトラック島への撤退するまで激戦のソロモン空域で戦ったパイロットです。
この時期は、ラバウル第281空の岩本徹三の1943年11月から1944年2月までの時期と重なっており、じわじわと日本海軍航空隊がF4UやF6Fに押されジリジリと後退していく様が岩本の著書と重ねて見ることが出来るよい戦記だと思います。

内容は岩本ほどの激しい撃墜シーンは少ないものの、米軍は岩本も多用した一撃離脱戦法で戦ったため撃墜シーンは巴戦も少なくあっさりとした岩本と似通ったものとなっています。
ソロモン前半線ではラバウルの坂井や大田、西澤などの激しいドッグファイト巴戦が多かったようですが、後半では一撃離脱が多くなり戦闘も随分様変わりしたことが分かります。

本書はソロモン航空戦でガダルカナルが陥落し日本が押され始め、ベテランパイロットを失い、経験の少ないパイロットが駆る零戦が大変多くF4Uの餌食になる様が描かれており、ソロモン末期の零はこうであったかと身につまされる内容となっています。

書中、零はサーカスの様にひらひらと宙返りをし、F4Uの追尾や射撃をスプリットSでかわしまるで曲芸の様で、とてもF4Uではついていけなかったと記しています。
日本軍の零がヒラヒラ飛びながらどうして衝突しないのか大変不思議だったとも記載があります。
また零は急降下速度は遅いが、上昇力は素晴らしく身軽と分かる描写がところどころに出てきます。

撃墜される零は、敵機を深追いし、背後に付いた著者のF4Uなどで撃墜される様がよく描写されており、大変興味深いです。
またF4Uの12.7mm機銃もよく故障を起こした記載が時々でてきます。

また零戦の機関砲も数発ごとに曳光弾が装てんされているのが標準と他書に記載されて居ますが、本書では、零は曳光弾を使わないので、背後から射撃されているのに気が付かず、よく不意打ちをされたとあります。曳光弾が無いと射線が分からず見込み射撃ができず照準が合わせれないと思いますが、後期の航空戦で実線経験者が多かったせいなのか、曳光弾より炸薬弾を使いたかったのか分かりませんが零の戦いについても意外なことが分かります。
零の20mmの破壊力も凄かったようですが、7.7mm機銃でパイロットが銃創を負うケースが多く出てきて、日本側の記載だけでなく米軍の記載からも7.7mmがパイロットを狙って多用された事が良く分かります。
背後から零に打たれた場合、座席の防弾鋼板で7.7mmも20mmも防げた様で、非常に気持ちが悪かったとありますが、防弾鋼板を持たなかった21型など初期の零ですとパイロットは致命傷を負ったと思うと米軍の戦闘機の装甲の頑丈さが分かります。
また、F4Uなど燃料タンクに炭酸ガスを封入し、燃料引火を防いでいた記述などもあり大変うらやましい装備です。

1943年末から44年初頭ごろのラバウルへの爆撃で、米軍編隊中で黄燐爆弾が爆発し、大変なことになったと記載があり、当時ラバウルの岩本等が爆撃機撃墜に多用した3号爆弾(夕弾、クラスター焼夷弾)が本書の空戦に実際に出てきて、たこの足の様に広がって燃える描写が描かれており、岩本の記載と合致する。
描写された3号弾の幾つかは岩本か、列機が投下したものかもしれないと思うとまた感慨深い。

米海兵隊は、爆撃機護衛の任務と対戦闘機制空任務と役割が明確に分けられており、爆撃機護衛に当たる戦闘機は、敵戦闘機との戦闘は一切禁じられており、米軍は日本軍と違い意外と厳しい統制がしかれていたことが分かる。

また米軍にあっても陸軍航空隊、海軍航空隊は少ない出撃回数で勲章などをもらえたとあるが、海兵隊は酷使され、また評価も低く勲章など撃墜数を稼ぎ、出撃回数を多くしないとなかなかもらえなかったとの事である。

当時の米軍パイロットの勤務は前線勤務6週間、1週間シドニーで休息、2週間訓練の後前線復帰する。これを3回繰り返すと帰国できるそうで、ソロモンのラバウルでは、内地に戻れるのは白木の箱に入るか、怪我をして飛行機に乗れなくなる時だけであり対照的な事がわかる。
また、「撃墜されるな」という命令はあっても「撃墜せよ」という命令はほとんど無かったとの事であった。またうらやましく思うのは、撃墜されても僚機が墜落地点を飛行艇や艦艇に連絡しそれに救出されるパイロットが非常に多く出てくることに驚き、うらやましく思われる。

本書に、中国戦線のフライングタイガースで名を上げ、同時期に海兵隊航空隊でソロモン戦線で戦ったボーイントンの記載がでてくるが、実際撃墜数も多かったようで、回りのF4Uパイロットたちも尊敬の目で見ていた様である。

ちなみに著者の撃墜数であるが、5機以上撃墜のエースパイロットには海兵隊では24機撃墜とされるボーイントンが唯一一人だけであるので、おそらく著者の撃墜数は4機以下であると思われる。
本書にはF4U数機に対して零戦十数機から数十機の撃墜の描写が出てくるが、エースパイロットに当該地区で活躍した海兵隊パイロットが一人しかおらず、また6週間前線×3回だけの前線では、なかなか撃墜も出来ず、技量的にも実際撃墜の確認も難しかったろうと思われる。
日本側も実質撃墜数は半分程度であることが多いので、本書に出てくる零戦撃墜数も実質は半分程度であろうと思われる。

本書はソロモン航空戦後半を米軍の側から見た貴重な戦記であり、苦戦する日本側の戦い方と比較して見ると面白いと思われる。
WWⅡ、航空マニアの方は一見の価値があると思われ、是非お勧めしたい。
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